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Y-NOTE by KENTMIYAZAKI

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2015年 11月 30日

住宅のデザインとアイデンティティー


住宅のデザインはアメリカで確立した。

 アメリカは世界中の移民を受け入れ世界中の建築様式に沿ったデザインを実物として具体的に比較する事が出来たからである。

 そのデザインの違いをスタイル=様式といい、宗教や出身国ごとに 明確なルールが存在する。スタイルを範とする建築はその後、20世紀初頭のフランクロイドライトのプレーリースタイルというアメリカ独自のデザインスタイルや国際主義者から生れるインターナショナルスタイルが生れるまで、殆どの建築が様式デザインの中で造られた。

17世紀、ヨーロッパから新大陸アメリカへの入植が始まったころ、人々は同国移民同志が寄り添い、祖国のデザインを模して建設され居住区(=コロニー)を形成した。それらは国ごとの特色を顕著に表し、イギリス人居住区の住宅はイングリッシュコロニアル、スペイン人居住区の住宅はスパニッシュコロニアル。オランダ人居住区の住宅はダッチコロニアルと、それぞれの出身国の名前で呼ばれ住宅のデザインもそれを引き継ぐ事になる。

 1987年憧れて渡米した自分が、逆に米国で日本人であることを認識し日本人らしく振る舞い、仏教や日本の建築や文学に興味が湧くということが起きた。
18世紀当時の自然社会のアメリカでは、同じキリスト教国、同じヨーロッパの隣国であっても、郷愁やナショナリズムを心の拠り所とし明確化・区別化したいと考え、自分の出身国や宗教を自己アイデンティティーの表現として住宅デザインをもって表現したとしても何ら不思議ではない。スタイル=様式とはそのような背景もって形成されたのである。

 随分少なくなったが、「洋風」とか「アーリーアメリカンスタイル 」といった名称で売られる住宅の広告を見かけると、外国のテレビや映画に出てくる中国も韓国もごちゃまぜの日本風建築物に感じる違和感と同じ感覚を覚える。
この時代のデザインを複合的に称してアーリーアメリカンと総称するが余りに広義である。建築に身を置くものとしての知識としては寂しい。 
 
 先に上げた植民地の名を冠した様式以外にもジョージアン、イタリアネート、スイスコテージ、チューダー、ゴシック、クラフツマン、etc,etc,,,.宗教的な表現や思想的な表現を体現する多くの様式が産まれ存在し今も使用され続けている。
 現在は人種の多様化を受け折衷様式となることが多くなったがそれでもスタンダードなスタイル=様式のディテールを踏まえる事を忘れてはいない。(そう、スーツのデザインが変化しているのに似ている)
 
 19世紀後半から20世紀初頭、産業革命はようやく建築の世界に変革をもたらす。イギリスの、ウィリアム・モリスは大量生産主義を見直し職人の手仕事を復活させるべくアーツ&クラフツ運動を展開。1859年、自宅兼工房『レッドハウス』を完成させる。今でもモリスはモダンデザインの父と言われるがその後生まれるデザインと比較すると外観において古典主義を脱却したとは言いにくい。この頃から印刷技術の発達と流通の発展が人々に情報をもたらし、一人の建築家の活動を広める事に繋がっていく。
 1889年、パリ万博のために当時の近代技術の集大成としてパリのエッフェル塔が完成する。人文科学に重心を寄せる建築家の批評は散々であった。
ヴィクトール・オルタはデザインソースを自然の中に求めたアール・ヌーボーデザインを建築に取り入れ1893年タッセル邸を完成させる。アドルフ・ロースはそれまでの国家・宗教に捉われた古典的だけでなく全ての装飾を罪とまで言い排除しようとし1911年ウィーンの目抜き通りにロースハウスを完成させる。1914年世界大戦がはじまり蒸気機関車や航空機や大型輸送船の普及は国際化を進め、重商主義への陰りを予感させ、大恐慌が建築のデザインをより
合理的なものにしようとする。女性の権利を求めるフェミニズム運動も活発化し、女性の労働に生産性がある事を認めさせるために住宅の間取りから台所や家事室がなくなる事もあった。そんな不安と模索のなかアール・デコが産れ、モダニズムへと変遷する。

 建築の世界では『鉄』という新建材が益々普及し、それまで構造的に縦長であった窓を横長とし、深い庇も可能となった。
1931年コルビジェはそれらを『近代建築の五原則』と名付けサヴォア邸を完成させる。この頃から建築家による国境を越えた建築の思想は通信技術の発達により共有化されインターナショナルスタイルとして確立していく。
同時期、建築を有機的なものとして捉え続けたフランク・ロイド・ライトも1935年、名作『落水荘』を完成。コンクリートによる陸屋根を始めて採用し、機械的なインターナショナルスタイルとは一線を画したライトらしいインターナショナルスタイルを産み出す。彼はこの時63歳であった。

 戦後、アメリカは膨大な住宅需要に応える為、より生産性の高い建築の合理化を目指し科学的な住宅地開発を始める。
先ず豊富な木材資源を有効に活用する為、産官学が一体となりプラットフォーム工法(=2X4工法)を確立する。プラットフォーム工法の施工性はその後の大規模宅地開発に大きな貢献をしていくことになる。オイルラッシュに沸くカリフォルニアでは1960年代に入ると、新建材・工法に意欲的だったイームズらが『ケーススタディハウス』と言われる住宅の近代化を試み、具現化していく。この試みが現在まで本流となる事は無かったものの、その後の住宅デザインに多大な影響を与えた。元々、日本の書院造りに影響されたと思える鉄骨ラーメン工法は、日本の設計者にデザインソースとして受け入れ安く、震災後の構造用金物の発達と大断面集成材の登場によって2000年前後から『大開口リビング』のデザインがブームとなった。

 ところで、18世紀、英国から独立運動を勝ち取り、国民国家として晴れて自由の身となったアメリカという国のグランドデザインはどこに向かったのであろうか? ホワイトハウス・国会議事堂・ペンタゴン。これらの政府機関の建物は、民主国家の原点であるギリシャにそのデザインソースを求め、グリークリバイバル、又はフェデラル=連邦様式としてアメリカの民主主義を今でも表現し続けている事はとても面白い。

 明治維新・文明開化後の日本は国際社会の一等国を目指し建築デザインを西洋化してきた。そこには封建社会のアンチテーゼとして民主国家を標榜する西洋国家に求めた事も一因であろう。戦後はGHQの指導の基、アメリカ式の民主化の教育を受け、日本人らしく多くのアメリカ式の豊かな西洋文化を合理的に取り入れてきた。その是非は別の議論とするが、我々の世代はその影響を受けたことは抗いようがない。近年、近隣諸国との関係の見直しを迫られる中、ようやく日本オリジナルを作り・見直す活動が活発化してきた。

僕の子供の感性は僕のつくった家から始まる。
自分は子供達に何を表現し何を残すのか。
親の残した家に住むのもいい、
建築家がつくった家に住むのもいい、
大量に作られた建売を買うのも、賃貸に住むのもいい。

いづれにせよアイデンティティーは育った環境によってつくられるのだ。




by kent_yano | 2015-11-30 13:06 | 住宅建築家「Y」のノート


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